INTERVIEW

教員インタビュー 髙谷時彦教授

――先生は大学院で教鞭をとられながら、設計事務所も主宰されていますが、そちらのお仕事についても少しお聞かせください。

大学では都市デザインの方法論を構築するという展望の下で個別具体のまちづくり活動に取り組んでいますが、それと並行して東京の事務所では建築の設計活動を行なっています。

歴史的建築を再生活用しようということと、建築家として更地の中に新しい建物を構想することに大きな違いがあるように見えますが、実は私の立場からすると、両者は一体のものです。

例を挙げましょう。私は昨年オープンした藤沢周平記念館を設計しました。何もない更地に建てたわけですが、敷地という更地(タブララサ)に新しいものをつくるということも、すこし俯瞰してまちのスケールで考えると、違った側面が見えてきます。

私は藤沢周平記念館を設計するときに、建築が置かれる場所をどう読み取るのか、そして藤沢周平氏が生まれ育ったこの風土の中から何を継承すべきかを考え続けました。同時に、時代が何を要求しているかについても考えを及ばせます。すなわち、私が「新しく作った」ものは、庄内・鶴岡という風土の中に現代という時代が付け加えた一コマなのです。

少し違う言葉で言ってみます。「新築」の場合、1つの敷地だけを見ていると全く新しいものが生み出されたように見えますが、まち全体で見ると、実は昔から続けられている部分の修復の積み重ねの一部といえると思います。まちはその一部、部分が少しずつ修復されている、大きな1つの生命体のようなものです。

少し話がそれますが、私たちは場所の声を聞き、時代を読みながらモノを生み出しているともいえます。建築家の中にはおもしろい方がいて、素材を見て、それがこうありたいという声を聞きそのままつくればよい建築になるというようなことをおっしゃる人もいるぐらいです。ミケランジェロが大理石に触れて、大理石がこうありたいという形に彫り上げていけば彫刻ができるといっていたのと同じです。

私にはそういう才能はありませんが、場所の声、時代の声に耳を傾けたいという気持ちはいつも持っています。最近は哲学者の桑子敏雄さん(東京工業大学教授)の空間の履歴という言葉を使わせてもらっています。人に履歴があるように、空間にも履歴があります。更地に見えてもそこに必ず履歴があるということを常に意識するようにしています。私にとってみれば、更地に立てた藤沢周平記念館も、歴史的建造物をコンヴァージョンしたまちなかキネマも、どちらも空間の履歴を尊重しながら設計するという態度においては変わるものではありません。ちょっと長くなりましたが、新築だろうと改修だろうと全て都市という大きな全体の中の部分の修復であるという意味がお分かりいただけたかと思います。

その他の仕事としては、住民参加型の建築としてコミュニティ施設をつくったりしています。千葉県にある幕張ベイタウン・コアは役所的に言うと公民館分館ですが、その中の集会所を生音の響くプロにも使ってもらえるコンサートホールとしてつくりました。

およそ2万人の方が地域に住んでいて、住民の方の意向として、コンサートホールをつくりたいということになりました。200席という小規模な施設ながら、天井は10メートルの高さがあり、RC(鉄筋コンクリート)とS(鉄骨)という構造を混ぜた建物になっています。予算的には公民館の基準通りにしたのでなかなか大変でした。

住民参加型というと泥臭いイメージがあるかもしれませんが、ここでは住民の方がどう使いたいかを自分たちで決めて、設計の形そのものは全てこちらに任せていただいたので、非常にスマートに進められました。住民が自分たちで研究会を立ち上げ、自分たちが何を望んでいるか、何が相応しいか、音楽、演劇、ダンス、カラオケなどについて自分たちで研究し、結果をプレゼンテーションし、反対はあったものの、住民自らが合意形成を行ないました。住民の方が自分たちでつくったという意識が強いので、使い方、運営の仕方が通常のコミュニティ施設とは違って、しっかりしています。

ただし、出来上がった段階で施設管理者となる予定の市とはかなり揉めました。しかし、住民自身が要望しているということ、建設主体である県が住民参加で行う方針を決めていたこともあり、最終的には住民の人たちと共に作った案で実現しました。

これから地域自治の流れが強くなってくると思いますが、いま振り返ると、このとき私は地域主権の最前線というか、新しいことに取り組む場に立ち会えたという感じがしています。

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